黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」で描かれた
トモエ学園と小林宗作先生。
小林先生は日本教育界にリトミック教育を導入した方です。
彼が日本に広めたリトミック教育とはどんなものだったのか。
さらに小林先生が運営したトモエ学園の生活や学習内容について、
まとめていきたいと思います。
小林宗作のリトミック教育とは?
リトミックはスイスで生まれた教育方法
幼児期に習わせたい習い事で知られるリトミック。
20世紀初頭に、
スイスの作曲家・音楽家のエミール・ジャック=ダルクローズが提唱した、
音楽と動きを融合させた教育法です。
音楽的な能力や表現力を養うだけでなく、
想像力、創造力、思考力など様々な力を引き出そうとするもの。
心身の調和を目的としているところがリトミックの特徴です。
提唱者から直接リトミックを学んだ
日本にリトミックを広めた小林先生は、
リトミック提唱者のエミール・ジャック=ダルクローズから、
スイスで直接リトミックを学んでいます。
どうしてリトミックを学ぶに至ったのか、
その経緯を見てみましょう。
音楽教師になる
もともと音楽が好きだったという小林宗作さんは、
小学校教師を経て念願の音楽教師になりました。
複数の小学校で多くの子たちに
音楽を教える日々を送ったといいます。
ヨーロッパへ留学する
小林先生は音楽教師として教鞭をとりながら、
当時の音楽教育に対して疑問を抱きはじめ、
子ども達にとって最善の教育とは何か
を、模索し始めるようになります。
そんな時に海外留学の資金を得るチャンスを得た小林先生は、
音楽教育や児童教育を学ぶために、
1923年、先進国のヨーロッパに渡ったのです。
新渡戸稲造の勧めでリトミックに出会う
はじめに行ったスイス・ジュネーブで、
当時国際連盟事務次長だった新渡戸稲造に会った小林先生。
スイスの音楽家・エミール・ジャック=ダルクローズの
リトミックを学ぶことを勧められたそうです。
リトミックを知り、その内容に共振した小林先生は、
その後パリで1年間、
リトミックを勉強することになります。
日本にリトミックを広めた
ヨーロッパから帰国した小林先生は、
幼稚園や小学校など教育現場で、
ヨーロッパで学んだリトミックを活用し始めます。
また1930年に再度ヨーロッパに留学し、
直接ダルクローズから承認を得て、
日本リトミック協会を設立します。
さらに1937年には、
リトミックを教育基盤とした幼小一貫校である「トモエ学園」を創立。
幼児、児童期の教育にリトミックを取り入れ、
総合リズム教育へと発展させました。
小林宗作が考えるリトミックとは
トモエ学園や小林先生について書かれた
黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」。
この本の中で、
小林先生がリトミックについて言及している部分があります。
- リトミックとは、体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯
- リトミックとは、心に運転術を教える遊戯
- リトミックとは、心と体に、リズムを理解させる遊戯
このように説明しています。
また、
リトミックを行うと性格がリズムカルになる、
そのリズムカルな性格は美しくて強い
とも語っています。
体と心にリズムを理解させ、
それが精神と肉体の調和になるという考えです。
その調和によって、想像力、創造力などの発達に繋げていきたい
ということが小林先生が目指したものでした。
小林宗作トモエ学園での生活や学習内容とは?
少人数制
トモエ学園は当時では珍しい少人数制の学校でした。
開校した時の小学1年生~6年生の人数は、
30人ほどだったそうです。
生徒一人一人に向き合う体制が整った学校だったのですね。
電車が教室
黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」では、
電車車両を教室としている様子が印象的でした。
実際にトモエ学園では、
電車を教室にしていた時期がありました。
在籍児童の保護者の中に東京横浜電鉄の重役がいたため、
廃車になった電車を譲り受け、
教室にすることが実現したといいます。
電車で勉強できるなんて、
子どもには夢のような学校ですね。
自由席
トモエ学園は自由席。
その日の気分や都合によって好きな席に座って良いという
自由なルールだったそうです。
現在でも小学校の席は基本的に決められています。
大学や一部の高校では自由席になっていますが、
義務教育の間は自由席の学校はほとんどないでしょう。
小学校ですでに自由席を取り入れていたトモエ学園は最先端と言えますね。
時間割がない
トモエ学園では席だけでなく時間割も自由。
一般的な学校ではきっちり時間割が決まっていて、
その時間割に沿ってクラス全員が同じ教科を勉強しますよね。
トモエ学園では時間割はなく自分が好きな教科から進めてOK。
同じクラスの中でも、
作文をしている生徒もいれば理科の実験をしている生徒もいる
という光景がトモエ学園では当たり前だったそうです。
トモエ学園のような学校に通ってみたかった
という声が多く上がるのも納得ですね。
優秀な先生が揃っていた
席も時間割もないトモエ学園。
一見子どもたちは勝手気ままに過ごしているだけのように見えますが、
ただ野放しにしていたわけではありません。
大きな力で子ども達を包み込める力を持った先生たちが、
きちんと子ども達に向き合っていたのです。
園長の小林先生は、
柔軟性を持って一人一人の子どもに対応できる先生を
時間をかけて探したといいます。
そして各先生たちに自由に指導するように任せていたそうです。
子ども達だけでなく、
先生たちも伸び伸びと教育することができ、
それが子どもたちにも良い影響を与えていたのでしょう。
指導力があれば、
国語の勉強が歴史にも繋がる
さらに算数や地理にも展開できる
として、
東京大学文学部の代用教員などを
採用していたそうです。
子どもの個性を何より大事にした
小林先生の教育方針は、
どんな子も生まれた時に「良い性質」を持っている。
大きくなる間にそれが周りの環境などにより損なわれてしまう。
だから、早くその「良い性質」を見つけて、
それを伸ばして個性のある人間にしていこう。
というものでした。
黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」では、
トットちゃん(=黒柳徹子)は小林先生から、
いつも「君はほんとうはいい子なんだよ」と言われていました。
トモエ学園に来る前の小学校では、
好奇心のせいで問題児扱いされていたトットちゃん。
小林先生はそんなトットちゃんの個性を尊重し、
伸ばしていこうとしたのです。
問題児とされた子や障害をもった子も
生まれ持った良い性質を伸ばしてもらえる
それがトモエ学園の素晴らしさと言えるでしょう。
自然とのふれあいを大切にした
リトミックを主軸とした「総合リズム教育」を行った小林先生は、
その中で自然とのふれあいを重視していました。
- 自然の中で存分に遊ぶこと
- 自然と対話すること
- 風や波など自然のリズムを全身で感じること
などを大切にし、
積極的に自然の中で教育を行ったそうです。
最先端の学校だった
戦前に存在したトモエ学園は、
今の時代に最先端とされている内容を
実施していた学校と言われています。
・教科横断的な学び
・異年齢学級
・実力重視の人材登用
・各教師への権限委譲
・多様性の受け入れ
このような今の時代が目指す教育の要素が
詰まった学校だったと言えるでしょう。
まとめ
今回は小林宗作先生のリトミック教育についてまとめてみました。
小林先生が広めたリトミックは、
心と体にリズムを理解させることで精神と肉体の調和を目指すものでした。
それを主軸にして作られてトモエ学園は、
戦前とは思えない最先端の素晴らしい学校だったことがわかりました。
小林先生の教育精神はこれからも教育現場で受け継がれていくでしょう。