タイタニック号日本人の生き残りは細野正文!誹謗中傷されていた理由は人違いだった?

タイタニック号に乗っていた唯一の日本人である細野正文さん

奇跡の生還を遂げたにもかかわらず

大変な誹謗中傷にあったといいます。

今回はその理由について、

細野さんの体験談が記されている手記などを参考に

まとめたいと思います。

目次

タイタニック号日本人の生き残りが誹謗中傷された理由を時系列で解説

ロシア留学を終えてイギリス経由で帰国


Wikipediaより

タイタニック号に乗っていた唯一の日本人、細野正文さん。

生誕:1870年11月8日
死没:1939年3月14日(68歳没)
職業:鉄道官僚
学歴:
東京高等商業学校(現在の一橋大学)本科卒
東京外語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科修了

YMOの細野晴臣さんは、細野正文のお孫さんです


https://president.jp/articles/-/65524?page=1

1910年、鉄道に関する専門部署に配属された細野正文さん。

鉄道技術が発達しているロシアにから学ぶ必要があり、

ロシア語が堪能だった細野氏さんが留学することになったといいます。

第一回鉄道院在外研究員として、

約2年のロシア留学を終えた細野さんは、

知人を訪ねるためにイギリスに立ち寄った後、

タイタニック号で帰国する予定だったそうです。

タイタニック号が氷山に衝突


https://www.jiji.com/jc/d4?p=tin123&d=d4_mili

タイタニックに乗り込んだ細野さん。

1等船室は白人しか受け入れられなかったため、

2等船室を予約したそうです。

そして航海の4日目の夜タイタニック号は氷山に衝突。

船長のスミス氏は、

女性と子供を優先的に避難させるように指示しました。

細野さんは手記の中で、

今日で命が終わることを覚悟したが、
慌てずに日本人の恥になってはならないと心掛けた

と、この時の気持ちを綴っています。

救命ボート4隻女が性たちでいっぱいになる中、

そこに乗ろうとする男性もたくさんいて、

船員はそれを防ぐために短銃をつきつけたといいます。

最後に救命ボートに飛び乗った


Wikipediaより

ボートに女性たちを乗せ終わり、

そのボートが少しだけ下におろされた時、

指揮員が、

あと2人乗れる!

と叫んだそうです。

すぐに1人の男性が飛び込みました。

ボートを見ると空いている場所があります。

もう妻子に会えないと覚悟していた細野さんでしたが、

これなら飛び込んでも誰にも危害を与えないだろう

と思い、

短銃で撃たれる覚悟で救命ボートに乗り込んだといいます。

女性と子供を優先した上で、

最後にギリギリで救命ボードに乗り込むことに成功した細野さんは、

無事に帰国することができました。

帰国後、誹謗中傷にあう

奇跡の生還を遂げた細野さんに対し、

はじめは祝福ムードでした。

ところが一人のイギリス人の発言により

祝福ムードは一変し、非難に変わったのです。

タイタニック生還者のイギリス人ローレンス・ビーズリーという人物が書いた

著作「THE LOSS OF THE SS.TITANIC」の中に

「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った嫌な日本人がいた」

という内容があったのです。

この証言が日本国内で広がり、

他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者

と非難されることになったのです。

教科書にも批判内容が書かれていた?

イラスト

大正初めに出版された女学校の教科書には、

・女、子供を優先するルールがあったにも関わらず、男のくせに助かった。
・日本の恥さらしだ

という細野さんを批判する内容が書かれたという話もあります。

また、

女性を装ってボートに潜り込んだ

という噂まで流れたそうです。

著名人も批判した

卑怯者のレッテルを貼られた細野さんに対し、

・新渡戸稲造(政治家、農学者、教育者)
・木村毅(早稲田大学教授)

なども非難的な発言をしたと言われています。

新渡戸稲造は5千円札に描かれている人物です。

日本全体が細野さんに対して批判的だったことが伺えますね。

鉄道院の役職を解かれた


Wikipediaより

誹謗中傷の影響もあってか、

鉄道院の役職を解かれてしまった細野さん。

副参事から嘱託に格下されたといいます。

しかし細野さんは一切反論することはなかったそうです。

女性、子供を優先すべき状況の中、

やはり男性の自分が帰還したことに

少なからず後ろめたさを感じていたとも言われています。

また、細野さんご自身だけでなく

ご家族も色々と辛い思いをされたそうです。

前向きな考え方もしていた

「週刊エコノミスト」によると、

誹謗中傷を気にする家族に対して、

俺が今こうして生きているんだから、いいじゃないか

と笑って取り合わないかった

というエピソードもあります。

本当にその通りですね。

死後に手記が見つかる

細野さんが亡くなった数年後、

長男の細野日出児さん

書斎の奥で細野さんの手記を見つけます。

そこには、

・女性と子供の救助を優先したこと
・船と一緒に沈む覚悟をしていたこと
・救命ボートに空きがあることを聞き、決死の判断で飛び乗ったこと

このような事が綴られていました。

救命ボードで漂流し、

やっと行き着いた船の上で書かれたものだといいます。

これまで言われてきた

他人を押しのけてまで生きて帰った卑怯者

ではなかったことが証明される内容でした。

父の汚名を晴らそうと奮闘する


Wikipediaより

細野日出児さんはこの手記をもって、

父の汚名返上をしようと奮闘したそうです。

しかし戦時中ということもあり、

細野日出児さんの取り組みは上手くいきませんでした。

細野日出児さんもまた、

父の汚名を晴らすことはできないまま、

1981年に亡くなられました。

映画「タイタニック」がきっかけで誤解が解けた


https://movies.yahoo.co.jp/movie/83641/

そんな細野さんの汚名がついに晴らされる時がやってきました。

そのきっかけとなったのが、

1997年に公開された映画「タイタニック」です。

その映画公開に合わせて、

「タイタニック財団」は様々な調査を行ったそうです。

その中で細野さんの調査も行うこととなり、

ご家族は細野さんの手記を団体に貸し出したといいます。

そして、その内容がついに明るみになったのです。

https://twitter.com/zatugakubanzai/status/1671820704059371521?s=20

団体がさらに当時の証言や資料などをもとに調査した結果、

・細野さんが乗っていたボートは13号ではなく10号だった
・10号に乗っていたのはアルメニア人2人とされていたが、おそらく細野さんがアルメニア人だと勘違いされていた
・「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った嫌な日本人」は、細野さんではなく別の中国人だった

このような事実が次々と明らかになりました。

細野さんの誹謗中傷の発端となった

イギリス人ローレンス・ビーズリー氏の発言は、

13号に乗っていた中国人に対するものであり、

人違いだったのです。

細野正文さんの孫である細野晴臣さんは後のインタビューで、

85年ぶりに汚名が晴れたことをお祝いして、

親戚一同集まったと話していました。

長い道のりではありましたが、

汚名返上が叶ったことは、

細野さんを信じ続けていたご家族の力があったのでしょう。

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まとめ

今回は、

タイタニック号の日本人、細野正文さんに対する

誹謗中傷の事実について調べてみました。

実際に細野さんは非難されるような行動はしておらず、

混乱の中での人違いが原因だったことがわかりました。

そして汚名を晴らすきっかけとなったのが

映画「タイタニック」であったことにも驚きました。

このような事実を知ると、

また「タイタニック」を観てみたくなりますね。

タイタニック号日本人の生き残りは細野正文!誹謗中傷されていた理由は人違いだった?

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