世界中の映画ファンに愛されてきた
スティーヴン・スピルバーグ監督。
生い立ちや経歴をを調べてみました。
スピルバーグの経歴・学歴
電気技師の父とピアニストの母の間に生まれる
本名:Steven Spielberg
生年月日:1946年12月18日
年齢:76歳(2023年3月現在)
出生地:アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ
スピルバーグは、
・電子技師の父、アーノルド・スピルバーグ
・コンサートピアニストの母、リア・アドラー
の間に生まれました。
また、3歳下の妹がいます。
父親の仕事の関係で、
幼い頃は引越しが多かったそうです。
6歳で初めて見た映画に魅了される
スピルバーグの初映画体験は6歳の頃。
「地上最大のショウ」(1952年)でした。
世界最大のサーカスで繰り広げられる
華麗なショーや団員たちのドラマが描かれる作品です。
しかし映画を見たことがなかったスピルバーグは
父親から
「地上最大のショウ」に連れて行ってあげる
と言われて、
本物のサーカスショーに行けると思ったそうです。
ライオン使いやピエロが見れると
ワクワクして会場に向かった6歳のスピルバーグ。
しかしそこにはサーカスのテントはなく、
薄暗い映像がスクリーンに映し出されました。
父に騙された
そう思ったそうです。
しかしその気持ちはすぐになくなり、
映画の世界に魅了されたといいます。
後に彼は映画初体験のことを、
僕はその体験の一員となり、
それが人生となった
と表現していました。
監督になったきかっけは「列車事故シーン」
「地上最大のショウ」に魅了された
少年スピルバーグでしたが、
興味を持ったのは列車事故シーンだったそうです。
そこでおもちゃの列車を買ってもらったといいます。
映画のシーンのような
列車の衝突を見たいスピルバーグは、
何度もおもちゃの列車をぶつけて壊しては、
父親に直してもらったそうです。
そんなスピルバーグに対し、
父親はついに
もう一度この列車を壊したら取り上げるぞ
と言ったそうです。
困ったスピルバーグが見つけたのが、
父親の8mmフィルム撮影カメラ。
これで列車の衝突を撮影して
何度も見まくればいいんだ!
実際に撮ってみると、
実際に列車がぶつからなくても
衝突したようなシーンが撮れる!
と、撮影にのめり込んでいったといいます
これがスピルバーグが監督になる
きっかけだったそうです。
いじめを受けていた少年時代
少年時代のスピルバーグは
読み書きに困難がともなう
ディスレクシア(読字障害)だったそうです。
読み書きを覚えるのが遅く、
さらにユダヤ人であったこともあり、
いじめを受けていたといいます。
さらに少年期に両親が離婚。
父親不在の生活を送ることになります。
17歳で映画業界に足を踏み入れる
アリゾナに住んでいたスピルバーグは、
17歳の時に観光でカルフォルニアを訪れ、
ユニバーサルスタジオを回るツアーに参加したそうです。
そこでスピルバーグは、
なんとトイレに隠れ、
ツアーバスが去るのを待ち、
一人でスタジオ内を探索したといいます。
すぐに関係者にバレてしまうのですが、
彼の突飛な行動が面白いと、
通行証を発行してもらったそうです。
発行期間はわずか3日間だけでしたが、
彼はその3日間で、
顔パスでスタジオには入れるほどの
人派を広げたといいます。
大学で映画を専攻するも中退
1965年に、
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学。
映画を専攻して勉強します。
実は本命は、
名門南カリフォルニア大学の映画・テレビ学部でしたが、
受験に失敗し、すべり止めだった本校に入学したそうです。
しかしながら、
ユニバーサルの仕事が忙しくなり
1969年に中退しています。
スピルバーグ21歳で映画製作を始める
21歳でユニバーサルと7年契約
大学に通いながら、
ユニバーサルに出入りしていたスピルバーグ。
ついには空き部屋を自分のオフィスにしてしまい、
居候して人脈を広げていきました。
やがて資金調達をして
「アンブリン」という短編映画を
制作することに成功。
その才能が認められて、
ユニバーサルと7年契約を結ぶことになります。
「激突」で注目される
ユニバーサルと契約後、
テレビ映画「激突!」が人気を集め、
海外では劇場公開されました。
その後、
「続・激突! カージャック」(1974年)で
劇場用映画の監督としてデビューしました。
「ジョーズ」が世界歴代興行収入1位に
劇場用映画の監督として
2作目に手がけた作品が
1975年公開の「ジョーズ」。
世界的な大ヒットとなり、
これまで1位だった「ゴッドファーザー」を破り
世界歴代興行収入1位を記録しました。
ハリウッドきってのヒットメーカーに
1970年代後半~1980年代、
スピルバーグ作品は次々に大ヒット。
ハリウッドを代表する監督として
確固たる地位を築きました。
「未知との遭遇」(1977年)
「レイダース/失われたアーク」(1981年)
「E.T.」(1982年)
「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」(1984年)
「カラー・パープル」(1985年)
「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(1989年)
ハリソン・フォード主演の
「インディ・ジョーンズ」シリーズは
80年代を代表する大ヒット作品となりました。
アカデミー賞を2度受賞
多くの作品をヒットさせる一方で、
スピルバーグはなかなかアカデミー賞を
取ることができませんでした。
オスカーが獲れないのはヒット連発に対する嫉み
という噂まであったそうです。
しかしついに90年代には2つの作品で
見事3つの賞を獲得します。
「シンドラーのリスト」(1993年):作品賞、監督賞
「プライベート・ライアン」(1998年):作品賞
「シンドラーのリスト」は、
第二次世界大戦時の
ナチスのユダヤ人大虐殺を描いた感動作。
ドイツ人実業家のシンドラーが
大勢のユダヤ人の命を救った実話をもとにした作品です。
強い思い入れのある作品でもあったため、
悲願の受賞となりました。
「プライベート・ライアン」は、
第2次世界大戦のノルマンディー上陸作戦を描いた作品。
アカデミー賞では11もの部門にノミネートされました。
同じ年「ジュラシック・パーク」が大ヒット
ヒットメーカーはオスカーを獲れない
という噂を払拭するかのように、
1993年はオスカー獲得と同時に
「ジュラシック・パーク」が世界歴代興行収入1位を記録
という偉業も成し遂げています。
同じ年に
世界歴代興行収入1位の作品と
オスカー受賞作品を手がける監督は
おそらくスピルバーグだけでしょう。
世界興行収入の総額が100億ドルに
2000年代以降も
数多くの作品が世界中で大ヒット。
「A.I.」(2000年)
「マイノリティ・リポート」(2002年)
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002年)
「ターミナル」(2004年)
「宇宙戦争」(2005年)
「ミュンヘン」(2005年)
「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」(2008年)
「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」(2011年)
「戦火の馬」(2011年)
「リンカーン」(2021年)
「ブリッジ・オブ・スパイ」(2015年)
「BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」(2016年)
「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」(2017年)
「レディ・プレイヤー1」(2018年)
そして2018年公開の
「レディ・プレイヤー1」の大ヒットにより、
スピルバーグ監督作品の総額が
世界興行収入100億ドル(約1兆707億円)
以上になったことを
海外メディアが報じました。
スピルバーグは
この偉業を成し遂げた
史上初めての監督となったのです。
スピルバーグの私生活は?
2度の結婚
これまで2回の結婚、
1回の離婚を経験しています。
・女優のエイミー・アーヴィング(1985~1989年)
・女優のケイト・キャプショー(1991年~)
エイミー・アーヴィングは若い頃から
舞台や映画で活躍してきた女優さん。
離婚の時には約100億円の慰謝料を受け取ったことが話題になりました。
ケイト・キャプショーは「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」
など多くの映画に出演している女優さんです。
子供は7人
元妻エイミーと妻ケイトの間には
合わせて7人の子供がいます。
ジェシカ・キャプショー(1976年生まれ):ケイトとその前夫の娘
マックス・サミュエル・スピルバーグ(1985年生まれ)スピルバーグとエイミーの息子
セオ・スピルバーグ(1988年生まれ)養子
サーシャ・スピルバーグ(1990年生まれ ):スピルバーグとケイトの娘
ソーヤー・アヴェリー・スピルバーグ(1992年生まれ):スピルバーグとケイトの息子
ミカエラ・ジョージ(1996年生まれ) 養子
デストリー・アリーン・スピルバーグ(1996年生まれ):スピルバーグとケイトの娘
ジェシカ・キャプショーは女優として活躍。
「グレイズ・アナトミー 恋の解剖学」の
アリゾナ役で有名です。
彼女以外にも、
俳優として映画出演されている方もいますが、
ほとんどが小さな役のようです。
まとめ
今回はスピルバーグ監督の
経歴を調べてみました。
映画との出会いや監督になるまでの道のりは
まるで映画のお話のようでした。
これからも、まだまだ素晴らしい作品を
作り続けてくれるでしょう。