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ジャニー喜多川の経歴は?アメリカで商才爆発!亡くなる直前や葬儀の様子は?

ジャニー喜多川の経歴はアメリカで商才爆発!亡くなる直前や葬儀の様子!

多くのアイドルを生み出したジャニー喜多川さんの、

アイドルを発掘するその才能は、

アメリカで培われた素晴らしい経歴にありました。

今回はそんなジャニーさんの経歴について、

詳しく見ていきたいと思います。

目次
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ジャニーさんの経歴

ジャニーさんのプロフィール

ジャニーさんのプロフィール

活動名:ジャニー喜多川
本名:ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)
日本名:喜多川 擴(きたがわ ひろむ)
生年月日:1931年10月23日
身長:153cm
血液型:AB型
出身地:アメリカ・カリフォルニア州
好きな言葉 :「勝てば官軍」
好きなもの :演歌、野球、イリュージョン、歴史

出身はアメリカカリフォルニア州

 

ジャニーさんはアメリカ合衆国、

カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれています。

日系2世なので両親共に日本人です。

ジャニーさんの家族がすごい!

 

父親の喜多川諦道(きたがわたいどう)さんは、

1898年に大分県で生まれており、

日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶です。

自ら「やくざ」や「遊び人」というほどに、

異色の坊主だったそうです。

 

 

ジャニーさんの母は江以(えい)さんで、

日本舞踊の名取でした。

大阪で暮らしていた江以さんもハリウッドへ移り、

その後3人の子どもが生まれました。

 

  • 長女が泰子(やすこ、メリー喜多川)さん
  • 長男が眞一(まさかず)さん、
  • 次男が擴(ひろむ、ジャニー喜多川)さん

 

 

父はアメリカで積極的に布教活動をしていましたが、

子供たちに日本の教育を受けさせるために、

1933年に家族で大阪へと戻り暮らすことになります。

 

多くの方から慕われていた、父の諦道さんがアメリカを離れる時、引き止め運動が起こったそうです。

 

しかしその翌年母が若くして亡くなってしまいました。

そのため長女のメリー喜多川さんが、

母親のように弟たちの世話をしていたそうです。

そして第2次世界大戦の影響で大阪から和歌山へと、

子どもたち3人だけで移り住むことになります。

  

 

高校はアメリカの高校へ進学

 

 

第2次世界大戦が終わり、

3人は日本を離れてロサンゼルスへ移り、

再び海外での生活を始めることになりました。

子どもたちは分かれて暮らしており、

ジャニーさんは散髪屋でお世話になっていたそうです。

 

英語を学びながら地元の老舗劇場で、音楽監督のアシスタントのアルバイトを経験。
住み込みの家政夫のアルバイトもしていました。

 

 

高校卒業後にはメリーさんと同じ、

ロサンゼルス・シティー・カレッジへ進学しています。

最終学歴は上智大学国際部を卒業しています。

兄は成績優秀だったため、

UCLAの理系学部へと進学をして、

後に科学者になりました。

将来を期待されていましたが、

くも膜下出血で倒れ55歳で亡くなっています。

 

 

ジャニーさん芸能界進出のきっかけ

戦後に渡米した芸能人との交流

 

父の勤務先だった東本願寺ロサンゼルス別院である、

「高野山ホール」のステージを、

日本からくるスターが利用するようになってきました。

 

戦後だったのでそのようなステージをする場所が、他にあまりなかったようです。

 

多くの有名人が訪れるとジャニーさんは通訳をして、

現地コーディネーターもやっていたそうです。 

 

高野山ホールを訪れた主な有名人
  • ディック・ミネ
  • 美空ひばり
  • 古賀政男
  • 霧島昇
  • 山口淑子
  • 高峰三枝子
  • 山本富士子
  • 笠置シヅ子
  • 服部良一
  • 大辻司郎
  • 大河内伝次郎
  • 菊池章子
  • 二葉あき子

 

 

どうやら彼らは交通費しか払ってもらえずに、

ノーギャラでアメリカに来ることも多かったようです。

ドルがなく何も買うことができない状態だったと言います。

 

 

それを見たジャニーさんは親戚の写真家に頼み、

訪れたスターたちのプロマイド写真を作って売り、

その売り上げを彼らにすべて渡していたそうです。

まさに未来のジャニー社長の始まりの瞬間です。

 

 

ジャニーさん、美空ひばりと出会う

出典元:時事通信

 

1950年5月にまだ12歳だった美空ひばりさんが、

当時人気だったボードビリアン・川田義雄さんと、

「第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演」のために、

アメリカへやってきて高野山ホールのステージを利用しました。

この時19才だったジャニーさんは、

このステージのマネージメントをしたのです。

 

 

この交流によって川田さんから存在を知られることとなり、

美空ひばりさんとの交流も深めていったそうです。

この出会いはジャニーさんが、

芸能界へ進出するきっかけの1つとなりました。

 

 

再び日本での生活を始める

アメリカ陸軍に徴兵

 

アメリカ国籍だったジャニーさんには兵役義務があり、

朝鮮戦争に参加するためにアメリカ陸軍に徴兵されました。

そこでジャニーさんはアメリカ軍関係の仕事で、

1952年に再び日本へ戻ってくることになります。

朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教えるために、

たった10か月で朝鮮語をマスターしたジャニーさん。

 

 

そして除隊してからは日本にそのまま残り、

上智大学の夜間部に通います。

1955年にはバンド活動を始めて、

芸能界へと足を踏み入れますが卒業と共に、

バンドは解散してしまいました。

野球チームの名前は「ジャニーズ少年野球団」

 

その後ジャニーさんは在日アメリカ軍事援助顧問団の、

事務職員として勤務をしながら、

独身米軍士官向けの4階建ての宿舎で暮らしていました。

 

 

そしてその頃豊島区立真和中学校の、

野球部の専属コーチをするようになります。

中学の卒業アルバムの右下にいるのがジャニーさんです。

やがて近所の子どもたちに声をかけ、

自分の野球チームを作るようになりました。

そのチーム名が「ジャニーズ少年野球団」です。

 

 

初代ジャニーズ誕生!

 

雨で野球の練習ができなくなったある日、

チームのメンバーの中から中学の生徒4名を連れて、

映画館へ「ウェストサイド物語」を見に行きました。

 

 

そこでジャニーさんをはじめ皆が感動して、

エンターテインメント事業を始める決意をします。

選抜した野球チームメンバー4名で1962年に、

「ジャニーズ」を結成してプロダクションを立ち上げました。

タレントのマネジメントが徐々に忙しくなり、

それまでの事務職員は休職ぎみになってしまい、

1966年に正式に退職しています。

 

  

ジャニーズ事務所社長へ

 

ジャニーさんは1962年6月にジャニーズ事務所を創業させて、

1975年1月正式に株式会社として法人登記されました。

姉のメリー喜多川さんはその頃、

「スポット」という名のカウンターバーを経営していました。

ジャニーさんがジャニーズ事務所を創業すると、

バーを辞めて事務所の経理を担当するようになりました。

 

 

ジャニーさんの芸能事務所の立ち上げは、

周りからかなり出遅れてしまい、

すぐには軌道にはのりませんでした。

しかし1980年に入った頃、

大手プロダクションが多くある中で、

ジャニーズ事務所が頭角を現すようになります。

 

 

1967年にデビューした「フォーリーブス」

1971年には郷ひろみさんがデビューをしています。

そして1980年代には大人気となった、

「たのきんトリオ」「シブがき隊」「少年隊」などの、

3人組アイドルをデビューさせました。

 

 

1987年には伝説のアイドルグループ、

7人組の「光GENJI」をデビューさせ、

社会現象になるほどの人気グループへと成長しました。

その後もSMAPをはじめ多くのグループを作り出し、

ジャニーズの人気を確たるものとしていったのです。

 

 

ジャニーさん死去

クモ膜下出血で倒れる

 

2019年6月18日の午前11時30分ごろ、

ジャニーさんは自宅で体調の異変に気付き、

病院に向かおうとして意識を失いました。

解離性脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血でした。

出典元:サイゾーウーマン

 

7月1日にジャニーズ事務所が、

ジャニーさんが入院し治療を受けていることを発表します。

入院中はジャニーズのメンバーが毎日病室を訪れ、

ジャニーさんと共に過ごしたようです。

 

 

そんなかわいい子どもたちに力をもらい、

一時期回復したこともあったようですが、

7月9日午後4時47分に東京都の日本赤十字社医療センターで、

ジャニーさんは87歳の生涯を閉じました。

東京ドームでお別れ会

 

7月12日にはジャニーズJr.のダンスレッスンルームで、

約150名の所属タレントたちと、

滝沢秀明さんのみで家族葬が行われました。

 

 

出棺の際にジャニーさんの遺影を持っていたのは、

後に副社長となるタッキーこと滝沢秀明さんでした。

そして9月4日には東京ドームにて一般の方も含めた、

ジャニーさんの「お別れの会」が執り行われました。

 

 

お別れ会は3部制で、
11時からが「関係者 第1部」
12時半から「関係者 第2部」
14時から20時までが「一般の部」

 

関係者の第1部に出席できるのは、

案内状が届いた以下の人たちです。

  • ジャニーズ事務所でレコード・CDデビューをしている。
  • 連絡先が分かっている人。
  • 所属タレントや事務所を辞めたタレント。
  • 例外もあり。

 

ジャニーさんのお別れの会の全体演出は、

滝沢秀明さんがメインでおこなったようです。

 

 

またセレモニーでは安倍晋三元首相の弔電を、

近藤真彦さんが代読しており、

その文面が大型ビジョンに映し出されました。

 

ジャニーさんのお別れ会について
  • 「関係者の部 (1部・2部)」への参列者は約3500名
  • 「一般の部」への参列者は約8万8000名
  • 「関係者の部」に参加した者への引き出物は、
    メッセージカードと、フォトブック『Thank You & Forever Johnny』
  • フォトブックはA5判でジャニーさんの幼少時など、多くの秘蔵プライベート写真が詰まっている
  • 元SMAPの3名による新しい地図(稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾)は、仕事を理由に欠席
  • 元TOKIOの山口達也も、案内状は届いたが辞退

 

荼毘に付されたジャニーさんは、

メリーさんが億単位の金をかけて新たに建て替えた、

「喜多川家之墓」へ父と母と共に入りました。

その後は娘の藤島ジュリーさんが社長に、

タッキーが副社長となりジャニーズ事務所は、

新たな時代へと入っていったのです。

 

 

まとめ

ジャニーさんの経歴はやっぱり素晴らしいものでしたね。

アメリカと日本を行き来し、

その英語力とプロデュース力を養い、

その結果ジャニーズ事務所を立ち上げるまで、

大きな才能に繋がりました。

副社長となったタッキーが去った今、

ジャニーズ事務所のこれからが気になるところです。

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